BIBLIOTECA NACIONAL NATIONAL LIBRARY OF PORTUGAL
OS PORTUGUESES E O ORIENTE (1840-1940)
Thai
Sobre a exposição About the exhibition
Sião China Japão

 

ポルトガル人のみた19、20世紀の日本

 世界に向け開国をした日本を最初にポルトガルに証言したポルトガル人は、フェリシアーノ・ペレイラであった(1)。1860年、ペレイラはポルトガルと日本との間の通商協定外交使節団の一員として江戸へ派遣された。そして、彼は日本で徳川時代という中国からもたらされた厳格な儒教的規律に統治された社会を経験したのである。江戸社会は、身分階層に分けられ、「大名」と約200万の侍による厳格な節度が保たれており、ペレイラは集団への恩義、服従、執着に特徴付けられるこの社会を不自由なものに感じた。1868年、将軍徳川慶喜の大政奉還により江戸時代は終わり、将軍制度が廃止され、帝は京都をぬけ江戸(現在のアジアの主要都市である東京)へと居を定めた。睦光天皇による明治時代の開始である。また、この時代は王政復古とも呼ばれる。
当時の日本の大転換に関する証言を著したのは、ペドロ・ガスタン・メスニエールである。メスニエールは、ジャヌアーリオ子爵の使節だった際、神道(天皇)の勝利と徳川政権から天皇、その神聖なる系譜は天照大神まで遡る、へと崇拝物が移ったことに気がついた。しかし、同時に侍社会の消失と「財閥」という貿易と産業を独占する特権階級の台頭をも目にしていた。日本は、急速に西洋化への道を進み、1880年半ばにはすでに模範的な生徒とみなされ、「アジアのイギリス」と日本を賞賛する者もいた(数十年のちに地政学者ハウスフォーファーが「オリエントのプロシア(ドイツ)」とこれを言い改めた。)。
1894年に日本にいたポリドーロ・フランシスコやゴンサルヴェス・ペレイラ、ジョゼ・アウグスト・コレイアにとっては、『お菊さん(ピエール・ロティ)』や『蝶々夫人(プッチーニ)』が人気となっている日本のほうに関心が強かったようである。この日本はつまり、緑の生い茂った牧場、神聖な寺社と森林、そして美しい日本人女性のいる日本である。真心を持った日本人女性は、横浜に到着した外国人船乗りや役人たちを虜にした。磁器のようでいて、男性の影となり、奉仕し、おしとやかで細心な日本人女性は、ヴィクトリア調の出過ぎた生意気で冷淡な感じのするブルジョアの淑女との交流になじんでいたヨーロッパの男性には喜びとモラエスが経験したような喪失感を与えた。徳川政権は女性をという作品を形にし、そして女性を「盆栽」に比する繊細な美しい装飾品にしたのである。「エキゾチズム」と産業化の高まる足音との齟齬をきたすことのない古の伝統への愛着を持つ、命を吹き込まれた人形のいるこの日本に西洋は感嘆のまなざしを向けた。日本は、ヨーロッパを手本とし、礼賛者としてヨーロッパになれるように最大限の努力をし、ロシアのアジア領土拡大に抗い大英帝国と同盟を結び、喉鳴の中国への処罰に与することで、19世紀末の国際政治に動静に参画するための条件を果した。日本は、立憲政体、代議制、自由貿易、重量・測量の諸単位、太陽暦、教育制度そして帝国主義、植民地といった制度さえも取り入れた。そして、1876年に韓国を併合した際、日本のヨーロッパ化への「前進」は友好条約を批准するという成果をもたらした。だが、この友好条約は当時中国に承認を強いた不平等条約にあらゆる面で類似したものであった。1895年、日本は台湾を攻撃し、韓国を影響下に置くことに成功した。仮に、当初のこれらの争いが時代の移行期の緊張状態を緩和し、諸種の慣習を西洋化することを容易にするために、かつての侍だった者の気をそらす巧妙な策略であるように見えたとすれば、1904年、世界は日露戦争の知らせに唖然としたといえる。アーサー港と対馬でのロシアの敗戦は、たとえ戦術に西洋並みの軍備を備えていたにせよ、ヨーロッパ的列強ではない国が世界の権力全体を脅かし得るという非常に暗澹とした予感を呈する事態であったのである。フェレイラ・ダ・クーニャ(6)、ギマランエス・フィーリョ(7)、ラディスロウ・バターリャ(8)、ピント・バスト(9)等は、増大する日本の勢力指数に関しアジアの極東で非常に重要な何かが起きているという認識で一致し、文章を綴った。

軍国主義と領土拡張主義

 日本はすでに世界第三位の海上勢力となり、東半球の地政学に決定的な影響を及ぼし得るのに十分な手段を有していた。かつて第一次世界大戦前にモンタルト・デ・ジェズース(11)が予見した通り、アジアはヨーロッパがその権勢を振るった最後年を目にしていた。アジアでの急速な出来事の展開は、多くの人間が想起したこと、つまりヨーロッパ列強間に広がる戦争が現実のものとなるなら、ヨーロッパ帝国主義の維持はヨーロッパシステムの中心で決定的に損なわれ得るということとイコールであった。1914年、日英同盟に基づき、日本はビスマルクやソロモンといった戦略諸島と同形態のシャントン(山東)半島のドイツ権益を奪った。
第一次世界大戦の戦火が残る中で、スペングラー、トインビー、ヴァレリーがヨーロッパの墓碑銘に手向ける言葉を思索しはじめたとき、アプトン・クロースは植民地、半植民地制度の不信、ナショナリズムの出現、アジアに白人が持った恐怖の消失、アメリカ合衆国の台頭といったアジアにおけるヨーロッパ的モーメントの枯渇を示す要素を的確に提示してみせた。1920年代、「黄色い危険」の古い神話は日本に結びついていき、満州と中国を日本の戦略目標にすることを画策した田中義一総理の文書「田中義一の上表文・田中メモランダム(対支政策綱領1929)」の東方会議での提示によりいっそうの高まりをみせるようになった。ワシントン会議(1922年)では、太平洋上の海上利権の拡大がはっきりと決定されたが、世界恐慌が発生してからは、日本は国際社会に背を向けるようになり、自らの決定で広大な市場と原料源を求めて侵略に乗り出した。満州の侵略(1931)および中国の侵略(1937)は、予想されたとおり世界規模の紛争への口火となり、この紛争のために世界は1939年から45年の間に荒廃することとなった。
カルロス・アブレウ(12)、ゲラ・マイオ(13)さらにセザール・ピレス・ドス・サントス(14)は、依然、「芸者」、桜の花、真珠取りの海女がつくりだすジャポニズムに傾倒していたが、ヴァスコ・ダ・ガマ・フェルナンデスは大量殺戮の統計値を収集するなどしていた。反コミンテル協定への加盟と日独伊三国同盟成立により、日本は後戻りできない道を突き進むこととなる。1940年、フランスの敗逃に乗じ、日本軍はフランス領インドシナを占拠した。これに怒ったアメリカ合衆国は、日本製品の輸入を中止し、慢性的な燃料不足にあぐねいでいた日本軍の生命線であった石油の供給を打ち切った。
1941年12月7日(日本時間8日)、ハワイ駐留アメリカ艦隊を山本五十六率いる飛行編隊が攻撃し破壊すると、日本軍はフィリピン、マレーシア、シンガポール、オランダ領東インド、ビルマ(ミャンマー)、ニューギニアの獲得に乗り出し、オーストリア国境付近にまでせまった。日本軍による6ヶ月という短期間の軍事行動で、ヨーロッパがアジアに有していた植民地は根絶された。ポルトガルにおいて、ジャポニズムの意味合いはほとんど悪魔国日本というものにとってかわられた。日本がポルトガル領ティモールに非道の限りを為し、侵略つづいて占拠してからは、「イエローモンキー」のほかに、矮小で取るに足らない残虐な黄色人種、ビン底丸めがね、出っ歯そして生まれながらの略奪者とステレオタイプなアメリカ的プロパガンダに従って、アメリカ映画、若者がいつの時代も好むマンガにたびたび登場するイメージで表象されるようになったのである。日本は、卑劣な侵略戦争を実施した。しかし、同時に日本人に対しても慈悲なき戦争が完遂されたのも事実である。この戦争では、国際協定は無視され、主要都市の破壊、容赦なき戦争捕虜虐殺、アメリカ合衆国の強制収容所での日本への忠誠の棄却、ヨーロッパでは決して使用されることはないであろう核爆弾の二度の投下がおこなわれたのである。
日本が無条件降伏をしてから10年、日本はふたたび世界の列強の一角となり、ポルトガルではマルティン・ジャネイラがポルトガルのジャポニズムの新たな時代を切り開いたのである。

 
 
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